知らないこと

 シーズン前に今年は2位~5位だろうととても適当な予想をしていた挙句、千葉ロッテマリーンズが6位になってしまい1人のファンとして悲しくなっている今日この頃であります。中村奨吾の23番から8番になったのが似合ってきた様に感じられるのが+要素で、シーズン前に頭上武大と叩いていたのを思い出します。

 

 ところで、生きていると時たま知らない事の多さ、自分の無知さにうんざりする事がありますが、普段何も考えずに日常を過ごして消費している内に周りの環境の中で完結してしまい、そもそも自分が何かを知らない事を認識出来ず、疲れてる時の無力感で初めて感じるという事がある様に思われます。

 人と話していて、誰と話しても自分の興味のある様なものにしか反応出来ず、初対面ならば話が相手が違う話題を振ると対応出来ず、そうでないならば話題によって集団が固定し、その中でしか会話出来ず、その会話も誰かが前に話した焼き直し、再放送でしかない。

 今は集団に属しているとかそういうのではないのですが、以前はその様な環境の中に誰もがいるのか自分のみなのか自分自身でも知覚出来ず、そもそもこの様な事を思いもせずに時間を浪費していた様に思われます。

 

 いわゆるSNSTwitterFacebookInstagramなどは当に集団の中の一個人という性質を無意識に増長させるものであります。

 Twitterはリアルの知り合いとの馴れ合い、あるいは画面の向こう側のフォロワーの話題がTL上を上から下へ素通りしていくだけになりがちであり、Facebook は馴れ合いそのものであり、Instagramも同質のものであります。

 これらは暇潰しにはなりますが、結局の所は見栄の張り合いか無関心な事がすぐ横を過ぎていくものにしかならず、所詮はSNS、140文字、ハッシュタグの連打による自己の発露でしか無いのかと思うと自分のSNSの使い方、あるいはそもそものSNSの存在意義について問い詰めたくなります。

 

 当たり前ですが、Googleの検索欄にワードを入れられなければそもそも調べる事が出来ません。調べる事がどうだ検索力がどうだとかいう話、調べる事そのものについてでは無く、調べる事の対象自体の持ち方、知り方についての方が余程重要に思えます。知らない事について調べられない仕組みが悪いのか、知らない事が多い自分が悪いのかはわかりませんが、この知らない事自体について理解出来る部分は多少はあるのではないかと思います。

 例えば、千葉ロッテマリーンズについて調べると所属選手や監督コーチ、その他諸々が出て来て、あるいは関連項目から他球団やパリーグ自体については知れますが、サッカーに行こうとするとジェフ千葉関連から辛うじて、あるいは偶然に行ける程度でしか無いのではないでしょうか。

 

 つまり、自分が言いたいのは調べる事が云々という事では無く、調べる所から更に何かを知りたい、繋げて更にそれ以上を今より確実に知れるのでは無いかという事であります。

 知らない事を知っているかどうか、それだけの違いで多くの事が変わっていきますし、知らない事はそもそも調べられません。自分で調べ、自分で考えるとは言いますが、その自分の元になるものは一体何なのでしょうか。